雑記:色相ごとの明るさに関する個人的印象(Twitter:2025/07/10-2025/07/14)
色について論じるとき、明度あるいは輝度とば別に、色相そのものに明暗の違いがある、という話を見たことがあるけれど、これについて個人的な感覚で考えると、おおよそ、モニターで発光量の多い色相が「明るい色」と感じやすいような気がする。
RGBとCMYを合わせた「R-Y-G-C-B-M」という循環で色相を並べ、彩度100の色、つまり純色の「明るさ」を考えてみると、「C」や「Y」の辺りは近辺よりも「明るく」感じる。
モニターは「R・G・B」3色の組み合わせで色を表現していて、「C」「Y」はそれぞれ「G+B」「R+G」の発光になっている。
逆に純色でも、モニター上で単色発光になる「R・G・B」は、純色同士で比べると、どちらかというと「暗い色」であるように感じる。
ただ、もっと細かく言うと、Y(黄色)は明確に「明るい色だ」と感じるけれど、M(赤紫)はYほど明るく感じない。
これは、Mが単色光としては存在せず、人間の脳が混色によって作り出している認識の一種で、いわば虚構に近い、という事情と関わりがあるのかもしれない。
物理的な「現象」ではなく、脳の作用に依存した「認識」や「虚構」であるなら、解釈が揺れやすくても不思議ではない。
波長の数値的に言えば、青と赤は繋がらない。
色相環という図は、物理的な「現象」を示した図なのではなく、脳の機能まで含めた「人間の認識」を示す図なのだろうと思う。
現象ではなく認識を表す図であるなら、個人差にも左右されるし、思考の基準にできるとは限らない、ということかもしれない。
「dress(20250630)」(Twitter掲載日:2025/07/08)
好みを追求した結果、現実ではありえない感じの形状になった絵。
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雑記:現状の画像生成AIが失望感を引き起こす原因について考える(Twitter:2025/07/01-2025/07/06)
現状の画像生成AIについて、「手描きだと思っていたらAIで、がっかりした」という話を見かけることがある。
こういう失望感はなぜ発生するのだろう、と考えると、既に見せられている人間の可能性が、原因のひとつなのではないか、という気がする。
絵について考えると、人類誕生から数十万(あるいは数百万)年の歴史によって、人間がどれだけ凄い絵を描けるのかは、充分に認知されている。
特に今は、情報伝達技術の発達によって、人力で可能な表現がどれだけ高水準か、人類自身、もう嫌と言うほど見せつけられている。
というより、絵や画像という分野においては、下手をすると「まだ人力の上限がわからない」という状態なのかもしれない。
なので、機械に大きく依存するならば、「人力では絶対に作れないもの」を作ってようやく「普通」という評価になる気がする。
速度だけは人力で不可能な領域に達しているけれど、生成の速度は「技術に対する評価」であって、「生成物自体の評価」とは本質的に関係がない。
見るときに「作られた速さ」を真っ先に考える人は少ないのではないかと思う。
むしろ、需要や許容限界を無視した高速濫造は、逆に反感を買いかねない。
画像という分野は「人間の可能性を示す舞台」という印象が強く、機械の力が強くなるほど、要求水準がどんどん上がっていくのだろうと思う。
結果、「人力だけでもできそう」と感じてしまうと、評価が下がる。
特に、人力で作ったように装っていると、反動で強い失望感が生じるような気がする。
画像という地点に留まっている限り、おそらく常に「たぶん人力でもできるよね」という感覚からは逃れられないような気がする。
もし、同じ品質のものが人力で作れてしまったら、機械で作る意味が揺らぎかねない。
これは分野を問わず、高性能な道具に頼る場合、常につきまとう問題かもしれない。
雑記:現状の画像生成AIに絡む他人事感の問題(Twitter:2025/06/25-2025/06/30)
画像生成AIを含む現状の生成系AIについて、「現行法で対処できるのだから、規制は必要ない」という意見を見ることがあるのだけれど、これは、あまり現実的ではないというか、問題を拡大させやすい考え方のような気がする。
「現行法で対処できる」という考え方をまとめると、だいたい「裁判をすればよい」という論へ行き着くように見える。
これは、言い換えれば「報復による抑止」という方向性だと思う。
けれど、現状の生成系AIによる高速生成能力に、裁判という制度が追いつけるのか、という疑問がまず浮かぶ。
現状の生成系AIに追いつけるということは、おそらく、大量の訴状が日々飛び交うことになる。
そういう社会が望ましいとは思えないし、裁判に関わる人は、負担が大きくなって、いい迷惑だろうと思う。
世の中には「取り返しのつかない被害」もあるのだし、根本的に、予防という観点が抜けている。
また、裁判には時間もお金も必要になるのだから、裏を返せば、「裁判をする余裕がない人間は諦めろ」という意味にもなる。
そうなると、無名の人々や生活に余裕がない人こそ、「反撃してこない相手」として狙われやすくなるはずで、社会の雰囲気がどんどん重苦しくなっていくのではないかと思う。
「現行法で対処できるのだから、規制は必要ない」という考え方の根底にはどうも、想定される問題に対して、他人事感覚というか、「自分は巻き込まれない」という意識があるように感じる。
しかし、悪意のある人にとっては、「自分が巻き込まれるとは思っていない人」こそ標的にしやすい。
現状の生成系AIは、生成の「素材」を明かさない構造になっているから、生じる問題を「他人事」と感じやすいのかもしれない。
けれど同時に、無許可で他者を「素材」として扱う、という仕組みでもあるから、「他人事と思っていたら、いつのまにか手遅れになっていた」という事態もあり得る気がする。
雑記:レイヤーという機能の個人的利点(Twitter:2025/06/20-2025/06/24)
デジタル作画の利点や恩恵は人それぞれ異なると思うけれど、自分の場合、今のところ最も大きな利点は「レイヤー」の機能であるような気がする。
自分は特に下書きの線を描く時、何度も描いたり消したりしながら修正していくので、前に描いた線を透かして見られる「レイヤー」という機能は、とても重宝する。
先に描いたレイヤーは、半透明にすれば、新たに描くレイヤーの目印になるし、複写すれば、一部分の修正も楽にできる。
紙の上で描いたり消したりする場合、鉛筆の描き跡を追うことになるのだけれど、どうしても、描き消しを繰り返すうちに紙が傷んでくる。
別の紙へ転写するならカーボン紙を使うことになるけれど、どうしても細かい意図が写し取れないところがある。
また、修正案を思いついたけれど、現在の案も捨てがたい、というときに、とりあえずレイヤーを消さずに残しておけば、容易に前後の案を比較できる。
紙だと、修正案の印象を見るためには現在の案を消さねばならず、のるかそるかの一発勝負になってしまうので、どうしても腰が引けてしまう。
問題があるとすれば、レイヤー数の増加。
描き消しや比較のためにレイヤーを追加していくので、ものすごい勢いで増える。
描き上げた後のレイヤー数を数えたことはないのだけれど、仕上げる頃にはファイルの読み込みが明確に遅くなるから、PCへの負荷は大変なことになっていると思う。
雑記:現状の画像生成AIによる「学習」を見て、権利の与え方について考える(Twitter:2025/06/15-2025/06/19)
画像生成AIを含む現状の生成系AIによる、無断での「学習」について、「人間もやっていることだから」という理由で容認する意見を見ることがあるのだけれど、これは実質的に、「人間を顧みない相手に、人間と同じ権利を与えてあげよう」といった方向性になっているのではないか、と思う。
人間は社会で生きていかねばならないから、他者との関係性や調和を考えながら能力を行使する。
けれど、道具や機械は生物ではないから、「社会で生きていく」という観念を持たない。
つまり、「他者との調和」という概念を考慮する必要がない。
「特定の目的だけを追う存在」に対して、「他者との調和」を考えず、「性能の向上」を最優先課題に設定すると、最終的に「何をやってでも性能を伸ばす」という方向性になる。
使用者が「他人の迷惑など気にせず性能を上げろ」と言っていれば、開発者は、そういう需要に応える道具を作るようになる。
現状の生成系AIは、「他者への配慮」や「社会の維持」といった観点を考えずに、性能の向上が至上命題とされているように見える。
けれど、道具は「性能の向上」よりも前に「人間の尊重」が最優先課題であって、性能の向上には常に、「人間の社会を破壊しない範囲内で」という制限がつきまとうはず。
道具に与えた権利や能力は、己自身を害する刃として使われる可能性もあるのだし、「一度与えた権利の剥奪」は、利害関係から抵抗に遭う場合が多い。
「他者との調和」という概念を持たない道具に対して、人間と同等の権利を安易に認めるべきではないと思う。
雑記:再開の負荷を下げるために重要な要素について考える(Twitter:2025/06/09-2025/06/14)
時間をかけて絵を描くとき、「深く考えずにできる作業」があるかどうかが、割と重要になるのかもしれない、と思う。
もう少し掘り下げて考えると、「これをやっていれば大丈夫」と思える作業があるとよい、という感じになる。
手法への疑問が少なく、確信を持っており、最低限の品質が保証できるような作業が望ましい。
思考の負荷が軽い作業、とも言い換えられる。感覚的に「慣れた作業」であることが多いように思う。
自分の場合、絵を描くうえで、「再開」が難関になりやすい。
絵を描くという行為は、何かしら思考が必要な行為だけれど、画面内に、複雑な思考が必要な内容しかないと、再開になかなか苦労する。
まず意識を内容に向けて、思考を組み立てるところから始めなければならない。
考えずにできる作業があると、そこを再開の起点にしやすい。
とりあえず手を出し、手を動かしていく中で、意識を内容の検討へと収束させていけるし、さらに、思考力が衰えているときも、そこを進めることで、最低限の成果は得られる。
「再開のために、敢えて中途半端な進捗で止める」という方法もあるけれど、自分の場合は「作業内容が決まっているかどうか」よりも、「作業自体が自分へ与える負荷」のほうが、再開の難易度を大きく左右するような気がしている。
負荷が高い作業を多数残していても、再開が容易、とはなりにくい。
総じて、「判断が必要な問題」があると手が止まりやすいので、「判断力を高く保つ方法」を考えるとともに、「判断が必要な要素をできるだけ減らす」という方向性も意識するべきなのかもしれない、と思う。